進撃の巨人に込められた「自由」とは?エレンの選択から読み解く哲学的メッセージ
目次
はじめに
「進撃の巨人」―この壮大な物語は、私たちに数多くの問いを投げかけます。
中でも、主人公エレン・イェーガーの行動を通して繰り返し描かれる「自由」というテーマは、読者の心を強く揺さぶり、深い思索へと誘います。
彼は何を求め、何のために戦い続けたのか。
そして、彼が希求した「自由」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
本記事では、エレンの選択と葛藤を追いながら、作中で描かれる多様な自由観を比較し、そこに込められた哲学的メッセージを読み解いていきます。
さらに、作者・諫山創先生がこの物語を通して現代社会に何を問いかけようとしたのか、そして私たちが自身の「自由」とどう向き合うべきかを探求します。
エレン・イェーガーという存在が問いかける「自由」とは?
物語の主人公であるエレン・イェーガーは、その生涯を通じて「自由」を渇望し続けた存在です。
彼の行動は時に過激で、賛否両論を巻き起こしますが、その根底には常に「自由」への強い執着がありました。
壁の中の少年が抱えた初期衝動:「この世界は間違っている」
物語の序盤、エレンは巨大な壁に囲まれたパラディ島で暮らす少年でした。
壁の外の世界を知らず、家畜のように壁の中で生きることに強い憤りを感じていた彼は、親友アルミンから聞かされる「炎の水」「氷の大地」「砂の雪原」といった未知の世界に憧れを抱きます。
「この壁の中は大きな家畜小屋だ」という彼の言葉は、現状に対する強烈な不満と、まだ見ぬ世界への探求心、そして何よりも「不自由」への嫌悪感を表しています。
母親カルラが巨人に捕食される悲劇を目の当たりにしたエレンは、「この世界は間違っている」という認識をさらに強固なものにします。
彼にとって、巨人の存在は理不尽そのものであり、人間から尊厳と自由を奪う象徴でした。
この初期衝動が、彼の長い戦いの原点となります。
「駆逐してやる!」に込められた自由への執念
「駆逐してやる!!この世から…一匹残らず!!」
このエレンの象徴的なセリフは、単なる巨人への憎しみだけではなく、彼らを排除することで得られるはずの「自由」への渇望が込められています。
彼にとって「自由」とは、脅威に怯えることなく、自分たちの意志で生きる場所を選べる状態であり、それを阻むものは全て「敵」でした。
調査兵団に入団し、壁外調査に参加する中で、エレンは世界の残酷さと複雑さを目の当たりにしますが、彼の自由への執念は揺らぎません。
むしろ、仲間たちの死や人類の危機的状況を経験するたびに、その思いは純化され、より強固なものへと変貌していきます。
彼の行動原理は、常に「自由」を奪う存在への抵抗であり、そのためにあらゆる犠牲を厭わない覚悟へと繋がっていきました。
世界を敵に回してでも選んだ“自由”の形
物語が進むにつれ、エレンは「進撃の巨人」の能力を通じて未来の記憶を垣間見るようになります。
そして、パラディ島エルディア人の「自由」を完全に実現するためには、島外人類の殲滅、すなわち「地鳴らし」という究極の手段しかないという結論に至ります。
この選択は、かつて彼が守ろうとした多くの人々、そして親友であるミカサやアルミンをも苦しめる非道なものでした。
しかしエレンは、「オレたちが自由になるためだ…仕方ないだろう」と、その茨の道を選びます。
彼が目指した「自由」は、他者の犠牲の上に成り立つ、ある意味で独善的とも言えるものでした。
しかし、彼にとってはそれこそが、自分たちの未来を自分たちの手に取り戻す唯一の方法であり、彼が追い求めた究極の「自由」の形だったのです。
このエレンの選択は、「進撃の巨人 メッセージ」として、自由の代償や、個人の自由と全体の幸福が衝突する際の倫理的なジレンマを読者に突きつけます。
進撃の巨人の「自由」とは?作中で描かれる複数の自由観
「進撃の巨人」の魅力の一つは、エレンだけでなく、様々なキャラクターがそれぞれの「自由」を追求し、葛藤する姿が描かれている点です。
彼らの自由観は多岐にわたり、エレンのそれとは異なる側面を照らし出します。
ミカサやアルミンの自由 vs エレンの自由
エレンにとって最も近しい存在であるミカサ・アッカーマンとアルミン・アルレルト。
彼らもまた「自由」を求めますが、その形はエレンとは異なります。
ミカサにとっての「自由」は、エレンと共にいること、彼を守ることと深く結びついていました。
彼女の行動原理は常にエレンであり、その存在が彼女の生きる意味そのものでした。
しかし、物語終盤、彼女はエレンを討つという最も過酷な選択を迫られます。
これは、愛する者の自由を尊重し、同時に世界を救うという、彼女自身の意志による「自由」な選択と言えるでしょう。
一方、アルミンにとっての「自由」は、未知の世界を探求し、理解し合うことでした。
彼は壁の外の世界に憧れ、巨人や敵対する人々とも対話による解決を模索し続けました。
エレンが力による自由の獲得を目指したのに対し、アルミンは知性と理性によって「自由」な未来を切り開こうとします。
彼の理想は、暴力の連鎖を断ち切り、共存の道を見出すことでした。
この三者の自由観の対比は、「進撃の巨人 考察」において重要な論点であり、それぞれの正義と苦悩が物語に深みを与えています。
ヒストリアの選択に見る「不自由の中の自由」
王家の血を引くヒストリア・レイス(クリスタ・レンズ)は、偽りの自分を演じ、過酷な運命に翻弄されるキャラクターです。
当初は「良い子」を演じることで周囲に受け入れられようとしていましたが、ユミルとの出会いやエレンたちの言葉を通じて、自分自身の意志で生きることを決意します。
女王となることを受け入れ、民衆のために生きるという選択は、一見すると「不自由」に見えるかもしれません。
しかし、それは彼女自身が「胸を張って生きる」ために選び取った道であり、押し付けられた運命ではなく、自ら掴み取った「不自由の中の自由」と言えるでしょう。
ヒストリアの物語は、与えられた環境の中でいかに主体的に生きるか、という自由のあり方を示唆しています。
マーレ側の視点と“選択肢のなさ”
物語の舞台がマーレに移ると、エルディア人でありながらマーレのために戦う戦士隊の子供たちの視点が描かれます。
ライナー、ベルトルト、アニ、そしてガビやファルコといったキャラクターたちは、パラディ島のエルディア人を「悪魔」と教え込まれ、自分たちが名誉マーレ人となることでしか生き残る道がないという「選択肢のなさ」の中で生きています。
彼らが求める「自由」は、差別や迫害からの解放であり、人間としての尊厳を取り戻すことです。
しかし、そのために同胞であるパラディ島のエルディア人を攻撃するという矛盾を抱えています。
マーレ側の視点を通して、作者は「正義」が立場によって変わること、そして抑圧された環境がいかに人々の価値観を歪め、「自由」な選択を奪うのかを鋭く描き出しています。
哲学的に読み解く「エレンの自由意志」
エレンの行動や思想は、実存主義哲学をはじめとする様々な哲学的概念と響き合います。
彼の「自由意志」を哲学的な視点から考察することで、物語の深層に迫ることができます。
サルトルの「自由と責任」から見たエレン
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と述べました。
これは、人間は本質的に自由な存在であり、自らの選択によって自己を規定していくが、その選択には全責任を負わなければならない、という意味です。
エレンの行動は、まさにこの「自由と責任」を体現していると言えるでしょう。
彼は自らの意志で「地鳴らし」という破滅的な未来を選び、その結果として生じるであろう途方もない犠牲と罪悪感を受け入れる覚悟を持っていました。
「戦わなければ勝てない…戦え…戦え!」という彼の内なる叫びは、過酷な現実の中で自由を掴み取ろうとする意志の表れです。
サルトルの言葉を借りれば、エレンは自らが選択した「自由」の重荷を背負い続けた存在と言えます。
【エレンの名言と哲学者の言葉:対応の試み】
- エレン・イェーガー:「オレは自由だ」
これは、彼が未来の記憶に縛られながらも、最終的な行動は自らが選択したという強い意志表示です。 - ジャン=ポール・サルトル:「実存は本質に先立つ」
人間はまず存在し、その後、自らの行動や選択によって自己の本質を創り上げていくという考え方。
エレンはまさに、その行動によって「自由を希求する者」としての本質を決定づけていきました。
カミュの不条理とエレンの覚悟
アルベール・カミュは、世界や人生の不条理さをテーマにした作品を多く残しました。
カミュにとって「不条理」とは、理性的な人間が、非理性的で意味のない世界に直面したときに生じる矛盾です。
「進撃の巨人」の世界は、まさに不条理に満ちています。
理由もなく人を喰らう巨人、歴史によって刻まれた憎しみの連鎖、そしてどれだけ努力しても報われない現実。
エレンは、この不条理な世界に対して、絶望するのではなく、反抗することを選びました。
彼の「地鳴らし」という選択は、世界の不条理に対する究極の反抗であり、たとえそれが破滅的な結果を招くとしても、自らの意志を貫こうとする覚悟の表れと解釈できます。
カミュが描いたシーシュポスのように、エレンもまた、不条理な運命に抗い続ける存在だったのかもしれません。
「未来が見えていても、自ら選んだ」というパラドックス
「進撃の巨人」の能力を持つエレンは、未来の出来事を知ることができます。
これは一見すると、彼の行動が運命によって決定づけられているように見えます。
しかし、エレンは「未来の記憶に影響されて、あの結果になった」「全てはオレが望んだことだ」と語ります。
これは、「未来予知」と「自由意志」という古典的なパラドックスを提示しています。
未来が見えているならば、それは変えられない運命なのか?
それとも、未来を知った上で、なお自らの意志でその未来を選ぶことができるのか?
エレンの苦悩は、この問いに対する明確な答えを提示しません。
むしろ、未来を知るという重荷を背負いながらも、その未来に至る過程を自らの意志で選択し続けた、という複雑な自由のあり方を示唆しています。
この「エレンの思想」の根幹には、決定論と自由意志の狭間での葛藤が存在したと言えるでしょう。
諫山創のメッセージ性と現代社会への問いかけ
「進撃の巨人」は、単なるエンターテイメント作品に留まらず、現代社会が抱える様々な問題について深く考えさせられるメッセージ性に満ちています。
作者である諫山創先生は、この物語を通して私たちに何を伝えたかったのでしょうか。
「誰もが自分の正義の中で生きている」—作者が伝えたかったこと
物語が進むにつれて、かつての「敵」であったマーレ側の視点や、エルディア人の歴史が明らかになります。
そこから見えてくるのは、絶対的な悪や正義は存在せず、誰もがそれぞれの立場や信念、そして「正義」の中で生きているという事実です。
パラディ島のエルディア人にとっての正義は、マーレ人にとっては悪であり、その逆もまた然りです。
諫山先生は、一方的な視点から物事を判断することの危険性と、多様な価値観を理解しようとすることの重要性を描いているのではないでしょうか。
この視点は、現代社会における国家間の対立や、異なる文化・思想を持つ人々との共存を考える上で、非常に重要な示唆を与えてくれます。
戦争・差別・自由意志という普遍的テーマ
「進撃の巨人」は、戦争の悲惨さ、差別の不条理さ、そして個人の自由意志の尊さといった普遍的なテーマを扱っています。
- 戦争:巨人との戦い、そして人間同士の戦いは、憎しみが新たな憎しみを生み、暴力の連鎖が断ち切れない現実を容赦なく描きます。
- 差別:エルディア人というだけで「悪魔の末裔」として迫害される姿は、人種差別や民族浄化といった歴史上の悲劇を想起させます。
- 自由意志:登場人物たちは、過酷な運命や理不尽な状況の中で、それでも自らの意志で何かを選び取ろうとします。
その姿は、私たち自身の生き方や選択について考えさせます。
これらのテーマは、時代や場所を超えて、多くの人々の心に響くものであり、「進撃の巨人 メッセージ」が世界中で受け入れられている理由の一つでしょう。
“読者自身が考える”ことを促す構造
諫山先生はインタビューなどで、物語の結末やキャラクターの行動について、読者一人ひとりが解釈し、考える余地を残すことを意識していたと語っています。
明確な答えを提示するのではなく、複雑な問いを投げかけることで、読者は物語の世界に深く没入し、登場人物たちの感情や選択に共感したり、反発したりしながら、自分なりの答えを見つけ出そうとします。
この「読者自身が考えることを促す構造」こそが、「進撃の巨人」を単なる物語以上の、哲学的な問いを内包した作品へと昇華させている要因と言えるでしょう。
読者が自分自身に問い直す「自由」との向き合い方
「進撃の巨人」は、読者に対して「あなたにとって自由とは何か?」という根源的な問いを投げかけます。
エレンをはじめとする登場人物たちの生き様を通して、私たちは自身の「自由」との向き合い方について考えさせられます。
エレンに共感する人が多い理由
エレン・イェーガーというキャラクターは、その破壊的な行動にもかかわらず、多くの読者から強い共感を得ています。
その理由の一つは、彼が抱える「抑圧からの解放願望」や「現状への不満」が、現代社会を生きる私たちの内面にも存在する感情と共鳴するからではないでしょうか。
情報過多で複雑化した社会、見えない圧力、思い通りにならない現実。
そうした中で、エレンの「自由」への純粋で強烈な渇望は、ある種のカタルシスを与えてくれるのかもしれません。
「エレンの行動理由」は複雑ですが、その根底にある自由への憧れは、多くの人々が共有できる普遍的な感情です。
「正しさ」より「選択」を重視する時代のメタファー
現代は、絶対的な「正しさ」よりも、個人の「選択」や「多様性」が重視される時代と言えます。
「進撃の巨人」で描かれる、それぞれのキャラクターが自身の信じる道を選び取る姿は、まさにこうした現代的な価値観を反映しているかのようです。
エレンの選択は、決して万人にとって「正しい」とは言えません。
しかし、彼が自らの意志でその道を選び、責任を負おうとした姿は、私たちに「選択することの重み」を突きつけます。
何が正しいか分からない時代だからこそ、自ら考え、選び、その結果を受け入れるという「自由」のあり方が、より重要性を増しているのかもしれません。
あなたにとって自由とは何か?
「進撃の巨人」を読み終えた後、私たちの心に残るのは、この問いかけではないでしょうか。
- 壁の外の世界に憧れた少年のように、未知への探求心があなたの「自由」ですか?
- 愛する人を守り抜くことが、あなたの「自由」ですか?
- 不条理な運命に抗い、自らの意志で人生を切り開くことが「自由」ですか?
- あるいは、他者の自由を尊重し、共存する道を探ることが「自由」でしょうか?
【自由の系譜:キャラクターと自由の象徴性】
エレン・イェーガー:
抑圧からの解放、自己決定の自由、時に破壊的で絶対的な自由を象徴します。
ミカサ・アッカーマン:
愛する者を守る自由、そして最終的には他者の自由を尊重し、悲しい決断を下す自由を選びます。
アルミン・アルレルト:
知る自由、探求する自由、対話による共存を目指す理想主義的な自由を体現します。
ヒストリア・レイス:
運命に抗い、自らの意志で生き方を選択する自由、不自由の中に見出す主体的な自由を示します。
ライナー・ブラウン:
罪からの解放、安息を求める自由、二律背反の苦しみの中での自由の模索を続けます。
リヴァイ・アッカーマン:
仲間との誓いを守る自由、託された意志を継ぐ自由、過酷な現実の中で最善を尽くすストイックな自由観を持ちます。
ジーク・イェーガー:
苦しみからの解放としての「安楽死計画」という歪んだ形ではあるものの、彼なりの救済としての自由を追求しました。
おわりに:ミカサの選択と他者の自由
物語の終盤、ミカサは愛するエレンを自らの手で葬り、巨人の力が消滅した世界で、彼を想い続けます。
彼女のこの選択は、エレンが求めた「自由」とは異なる形ではありますが、エレンの暴走を止め、残された人々が生きる「自由」を守るための、そしてエレン自身を苦しみから解放するための、愛と覚悟に満ちた「自由」な決断でした。
そこには、他者の自由を尊重するという、エレンの自由観とは対極にあるかもしれない、しかし極めて重要な視点が含まれています。
「進撃の巨人」が提示する「自由」の形は一つではありません。
それぞれのキャラクターが示す多様な自由観に触れることで、私たちは自分自身の「自由」について、より深く、多角的に考えるきっかけを得ることができます。
この物語は、私たち一人ひとりが、自分にとっての「自由」とは何かを見つめ直し、それをどのように追求していくべきかを問い続けているのです。